開正藤(ひらきせいとう・本名藤太郎)・開生珉(ひらきせいみん・本名賢次)父子は、淡路島のだんじり(太鼓台、曳きだんじり)や社寺彫刻、関西一円の地車や太鼓台等、数多くの名作を残し、淡路島の生穂の地に淡路彫アリと言わせしめた彫刻界の巨匠である。その後、開父子を追うように生穂(いくほ)からは黒田正勝一門の木下舜次郎、賢治父子や松田正幸、正彦父子などの名工を多数輩出することになる。黒田正勝一門は松本義廣一門と並び称される播州彫刻界の名門であり、開正藤は二代目黒田正勝に師事し、木下舜次郎および松田正幸は二代目の跡目息子である三代目黒田正勝に師事し、三代目亡き後はこれら淡路出身の彫刻師が黒田の技術を継承していく。現在、岸和田周辺で地車彫刻に携わるほとんどの彫刻師は木下舜次郎の流れを汲んでいる。

(『上町地車誌』より)
稲がよく実るこの生穂(なまりほ)の地は、摩耶山を頂に津名丘陵を流れる生穂川が形成した小平野であり、その先には大阪湾が広がり、神戸から大坂、大坂から泉州を一望できる位置にある。古くから京都上賀茂神社の荘園として、競馬会(くらべうまえ)神事に生穂産の駿馬「淡路」が献上されていた。生穂(いくほ)と呼ばれるようになったのは昭和3年(1928)に生穂町が成立してからである。淡路島は日本を代表する伝統芸能の一つ、人形浄瑠璃が盛んな地域。最盛期には四十座以上が競い合い、島内のみならず日本全国を巡行しながら各地に人形芝居を伝えた。文楽の創始者である上村文楽軒も淡路出身である。人形浄瑠璃は島民最大の芸術性豊かな娯楽であり、生穂の町も例外ではなかった。大阪文楽座を勤めた谷駒太郎(芸名駒太夫)や、素人義太夫で淡路人形芝居の保存と振興に支援した実業家の奥田利生などは生穂出身である。その他、小さな町ながら著名な芸術家では陶芸家の井高帰山や俳人の岩木躑躅などを生み出した。
明治5年6月8日、開藤太郎は生穂浜にて産声をあげた。幼くして父・友次郎を亡くした藤太郎は、だんじり請負業を営む大歳屋(おおとしや)の求めに応じ生穂に仕事場を構えていた彫刻師・二代目黒田正勝(本名嘉七郎)に弟子入りする。正勝には画才があり独創的な構図を作り出すのを得意としていた。正勝は跡目息子の三代目黒田正勝(本名嘉七郎)と同様に藤太郎の面倒をみて可愛がり、仕事では厳しく指導し愛情を注ぎ込んだ。明治26年師匠亡き後は、正勝の一字を譲り受けて開正藤と名乗り、黒田の技術を継承しつつ師匠譲りの独自の技法を編み出していく。明治29年12月21日、妻さき(旧姓奥野)との間に長男賢次(のちの生珉)が誕生した。正藤は物心つく頃には職人の道へと飛び込んだため読み書きはできず、代わりに賢次には厳しく勉学を進めた。のちに賢次は正藤の墨書きや書簡等の代筆を務めることになる。修業後、父・正藤の元に入門する。仕事場では父子向かい合い仕事をこなし、雅号は生珉とし正藤の技術を忠実に受け継ぎつつ芸術性も求めていく。
開父子の彫刻技法や作風は淡路島の布団だんじりの見所の一つ、狭間(さま)と呼ばれる彫刻部位の小さな世界で確立されたものである。布団台を支える枡組の間に納められる狭間は、通常は二枚、あるいは三枚の彫刻が施されて薄い板を重ねて立体感を出す。開父子は、この基本的な技法を踏襲しつつ、新たな工夫を加えた。例えば、奥行きを出すため土部に勾配をつけて彫る。主役の人物は存在感を際立たせるために恰幅のよい体型、顔は大きく雅やかに人形浄瑠璃の頭(かしら)のように品格を保ちながら豊かな表情を持たせる。人物等は前に傾けて手前が大きく奥は小さく彫り分ける。作品の縁取りである両側の樹木は盆栽のように中央に向かって丸く仕立て、松葉等はつけ木で前後に配置することで木々が生い茂る様を出す。単純に直線で鑿を刻まず木口は深く刻み込み、作品の隅々に柔らかな陰影をつける。開父子の作品から醸し出される独特の空気感は、研ぎ澄まされた技術に裏打ちされた普段の工夫の賜物であり、過去及び現在の名工が口をそろえて開父子の作品を認める所以でもある。
大正に入ると開父子は岸和田へ進出する。岸和田の地車と淡路の布団だんじりの大きな違いは、彫刻部位の大きさと比率。地車の部材の方が、大きく横長となる。淡路の狭間から岸和田の土呂幕(どろまく)へと物語の舞台は移ることになる。小さな世界で磨かれた淡路彫の技術は、その彫刻部位が大きくなっても如何なく発揮され、彫刻も立体感や躍動感を飛躍的に上げることとなり、地車彫刻の世界に新たな旋風を巻き起こした。開父子の最初の地車作品は大正6年新調の下野町先代地車で、当初は寺田宇ノ松が手掛けていたものの製作途中で逝去したため、開父子に白羽の矢が立った。その後も父子二人三脚で数多くの地車を手掛けていく。昭和4年、岸和田市の上町(岸城神社氏子)地車の新調時には「玉葱とチーゼルとで地車ができた話 全国でも有名な彫刻師が腕をふるった岸和田祭りの花」と題した記事が大阪朝日新聞で紹介された。
開正藤・生珉ともに無口で職人気質であったという。片や紋付羽織袴の正装で、片や背広にネクタイのモダンボーイ。生珉に木彫りの指導を受けた西岡氏曰く、「先生と会話をした記憶がない。彫物を持っていくと無言でささっと手直ししてくれる。直しがない時はよしということ。いつも鑿を研いでいた記憶がある。奥さんとはよく話した。今、先生が何を考えてるかなど。先生に教えてもらったおかげで今までに一度も鑿で手を切ったことがない。」、開父子宅の近所に住むN氏曰く、「開のおっちゃん(正藤・生珉)とこ行ったらお菓子いっぱいくれるから近所の子供たちが集まっていた。」「裁縫しとって親指の爪の間に裁縫針突き刺したとき、開のおっちゃん(生珉)とこ行ったら抜いてくれるわって近所の人に聞いてお願いしたら、ちょっと痛いかもしれんけどあっち向いとけやと言われて、彫刻刀で痛みなく抜いてくれた。」など。仕事に対する姿勢は父子とも厳格である一方、近所付き合いがよく、人の面倒を見るのが好きな人情味のある人物といえる。
昭和18年1月17日に正藤が他界。生珉は家業を引き継ぐことになるが、戦時の緊縮ムードが漂う中で受注も減り、先の仕事を見据えてか彫師として仕事を続けつつも、昭和17年には生穂町の町村会議員に立候補し見事当選。昭和26年まで二期に渡り就任する。戦争のあおりはそれだけではなかった。一人息子の佳積(かつみ)を第二次世界大戦で失う。淡路市下河合檀尻や洲本市漁師町曳檀尻などの戦後の作品では、生珉ではなく公輝(こうき)の雅号を用いることもあり、今までにはない芸術性を加味した作風も見受けられる。また、戦後は地元の展覧会等にも積極的に出展する。昭和43年1月5日に生珉他界。開父子直伝の技法がここに途絶えた。しかしながら、冒頭で紹介したように開親子の作風を受け継ぐ彫師の数は少なくなく、その名前を意識せずとも、現在の岸和田型の地車彫刻には、淡路系岸和田彫とでも言おうか、その名残を随所に見ることができる。 (平田雅路)
こんにちは。 開父子について知らなかったことが多くあることに気づかされました。 これからも勉強させてください! どうぞよろしくお願いいたします。
ありがとうございます。
ほんと難しいですよね。
気持ちが入ると余計に進まなくなって途方に暮れました。
地車誌の完成を楽しみにしております!
お疲れです。
良く書けてますね!
わかっていても活字にするのは難しいですからねー