太鼓は音を伝えるための祭具です。カミに対しては、その降神を乞い、ヒトに対しては祭の始まり、あるいはカミの到来を告げます。

太鼓台のルーツは神輿の到来を告げる触太鼓。太鼓台と呼べる初期の形態は鋲打太鼓を木枠に吊しただけの単純な枠式太鼓台でした。
これらが各地に伝播すると、一見しただけでは同じ出自の構造物とは判別できないほどに、様々な形態の太鼓台が生み出されました。一番有名なのが、緋色の茵(しとね)のようなものを何枚も重ねた布団太鼓。屋根付太鼓台の典型ですが、この屋根が、鳳輦型神輿の屋根を模したもの、神社の社殿を模したもの、など様々です。

また、同じ形態の太鼓台であっても、「布団太鼓」「御輿太鼓」「布団だんじり」「ちょうさ」「よいまか」、あるいは単に「太鼓」などと呼ばれ、太鼓台をその名称だけで分類することは難しいです。
このように多様な太鼓台ですが、多くの太鼓台に共通する要素があり、そこから、太鼓台の出自は神輿の触太鼓であることがわかります。
(1)乗子(のりこ)の装束と作法に見る太鼓台の神聖性
太鼓を打つ乗子の多くは子供です(あるいはかつては子供だった)。そして「化粧を施し投頭巾をかぶって艶やかな装束をまとう」「地面に足をつけずに大人に肩車されて移動する」といった多くの太鼓台に共通する乗子のあり方は、神賑行事の囃子方というよりも、神事に向かう神役のように感じられます。
乗子は、無邪気な子供でなければなりません。化粧・装束による変身は、カミに仕えるため、あるいは神聖な祭具に触れる資格を得るためと考えられます。

(2)太鼓の奏法
太鼓台の太鼓は、激しく打ち鳴らす地車囃子とは異なって、遠音がさすように一音一音が丁寧に打ち込まれます。江戸時代も同じような打ち方がなされていたのでしょうか。日本での録音の始まりは明治以降ですので、江戸時代の音源はございません。文献から「音」を再現するのは難しいのですが、幸いにも、大田南畝(蜀山人)の日記『芦の若葉』には、享和元年(1801)の天神祭における催太鼓の「音」が記録されています。そこには、現在と同じように「まどをに(間遠に)」、すなわち、一音一音の間隔をあけて打たれていたと記されているのです。
太鼓台の役割は、人々を囃し立てるのではなく、人々にカミの到来を知らせるために音を遠くに伝えることだったのです。太鼓の奏法が神賑化しなかった、すなわち、囃子化しなかったのは、このような太鼓台の役割を、担い手自身が十分に理解していたからに他なりません。
(3)神輿を先導する太鼓台
太鼓台の歴史が古い祭では、太鼓台は今でも神輿の先導役で、その担い手の地位は、概して、他の練物よりも高いとされます。天神祭の催太鼓(もよおしだいこ)、生國魂神社の枕太鼓、杭全(くまた)神社の太鼓台などが代表で、催太鼓の「催」には「お知らせ」の意味があり、生國魂神社の枕太鼓は、かつては「報知太鼓」と呼ばれていました。

以上のような現在の太鼓台の特性や史料から、様々な形態の太鼓台のルーツは一つで、それは神輿の触太鼓であると言えるのです。
太鼓台は本来は氏地に一台が基本でしたが、神輿の先導という役割を離れて、地車のように、氏地に複数台が出る祭も次第に多くなってきました。次回以降、このような「神賑一般の太鼓台」についても触れて参りたいと思います。
図・写真 森田玲『日本の祭と神賑』創元社より
なぜ布団屋根が太鼓台につけられたのかよくわかりませんが、布団といっても布団カゴに赤い布をかぶせているだけなので本物の布団ではありませんよね。逆三角形の布団屋根は美しいですがその姿に至った物語を知りたいです。