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フォーラム記事

河合申仁
2019年3月11日
In コラム② 河合申仁の作品紹介
平成20年新調 宮本町(岸和田)正面土呂幕 夏之陣 道明寺合戦 薄田隼人 大坂夏之陣の名場面。下唇を噛み鬼の形相で松平忠昌を睨み付け鉄棒で馬を一撃する。 この土呂幕は、平成二十年の作品で、木下彫刻工芸の職人時代のもの。 我々彫刻師は、下絵を描く際、その物語を理解し、錦絵や昔の彫刻を参考にしながら描くのですが、この場面は史料が少なく、苦労したことを思い出します。この場面を描いた錦絵も一枚しかありませんでした。 史料が少ないにもかかわらず、この薄田隼人がなぜ地車彫刻ではよく彫られているのか。それは、おそらく講談の影響が大きいと考えられます。 歴史的にはそう有名でもない薄田隼人でしたが、講談では英雄だったようです。 そこで、四代目旭堂南陵先生にお願いし、このお題での講談を披露していただきました。 話芸である講談は情景描写に優れており、下絵の構想にとても役立ちました。 このようにして、彫刻の土台となる下絵が出来上がり、彫刻の作業に取りかかったのですが、宮本町といえば私の産土神社である岸城神社の宮本。あのコナカラ坂を必ず一番に上がり、そして一番に宮入する地車です。 その地車の顔である正面土呂幕。いやが上にも鑿の握る手に力が入りました。 馬乗り二体を対峙させることも考えましたが、ここは左側の馬乗り(松平忠昌)一体を倒して中央に空間を作り、奥までよく見える構図にしました。また、馬具の厚総は朱色とすることが多いのですが、墨で表現することで、落ち着きを持たせました。通常は一種類の木々で飾るのですが、ここでは松と紅葉の両方を配して、より豪華な見栄えを追求しました。 当時の私の持てる力をすべて出し切った作品となりました。
岸和田宮本町正面土呂幕 content media
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河合申仁
2019年2月28日
In 彫物フォーラム(掲示板)
開さんの素晴らしい所は挙げるとキリがありませんが、その一つが木の枝振りです。 狭間などでは付け木をするのが一般的ですが、地板に彫る木の幹と付け木にする葉の部分とのバランスが絶妙です。 私も何百回と絵を描き、彫ってきましたが、なかなかこうはいきません。 狭間の木の枝振りは、淡路彫の見所ですね。
枝振り content media
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河合申仁
2019年2月25日
In コラム② 河合申仁の作品紹介
平成27年新調 我孫子 地車 正面土呂幕 朝比奈三郎の奮戦 鎌倉幕府の侍所別当・和田義盛の三男・朝比奈三郎(和田義秀)。 館の中で敵方を相手に馬上から鉄棒を振り回し、群がる敵兵を手当たり次第に討ち取る朝比奈三郎。 奥板には、敗走するの北条義氏を配した。 この土呂幕では、普段とは異なる松葉の割り方(松葉を表す放射状の筋の数)を採用した。 私が修行した木下彫刻工芸では、松葉の割り方を少なくして彫りを深くする。通常はこの手法を用いるが、今回は、彫りは少し浅くなるが割り方を増やし、松葉の繊細さを強調した。これには、主人公である朝比奈三郎の存在感を際立たせる効果がある。 物語の場面上、豪快な振る舞いが求められるが、それに引きづられると、土呂幕という横長の部材を活かしきることができない。そのため、いつも以上に、馬、人物、松の枝ぶりなどの収まり具合に気を配って構図を考えた。 ---------------------------------------------------- 余談ですが、木下時代から、ここぞと言う作品には、どこかに私の名前の「申」に因んで「猿」を彫り込んでいました。しかし、この場面に猿はそぐわないので、悩んだ結果、朝比奈三郎が持ち上げている敵兵の顔を猿にしました。これは、地車を捌いた時(修理などで解体した時)にしか見ることができません。
我孫子 地車 正面土呂幕  朝比奈三郎の奮戦 content media
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河合申仁
2019年2月12日
In ひね博 概要(ご挨拶)
ホームページをご覧の皆さま。 この度は「彫物ひねもす博覧会~岸和田彫刻の源流を訪ねて~淡路の太鼓台(だんじり)と岸和田の地車(だんじり)」のホームページをご覧いただきありがとうございます。主催者を代表いたしましてご挨拶させて頂きます。 私、河合申仁(かわい・のぶひと)は、岸和田城下の中町の地車で生まれ育ち、五十年の人生を地車一色で駆け抜けて参りました。祭の楽しみを数え上げ得ると切りがありませんが、その中でも私が最も心を惹かれたのが彫物の世界でした。人馬一体となって今にも動き出しそうな躍動感のある彫刻、得も言われぬ欅(けやき)の木目と古色の味わい、その地車の刻まれた物語絵巻に惹き込まれていったのです。 当時は、まさかその彫刻を自分が彫る立場になるとは思ってもいなかったのですが、かけがえのないご縁に恵まれて、高校卒業後すぐに木下彫刻工芸への入門が叶い、木下賢治親方の下、兄弟子の木下健司君とともに修行の日々を送りました。親方の自宅に住み込ませていただいた七年の年季(修行期間)が明けた後も、木下彫刻工芸の下で、カンカンカンと鑿(のみ)を玄翁(げんのう)で打つ心地良い音に包まれながら、朝から晩までひたすら欅の塊と向かい続けてる日々を送りました。 平成22年に独立し、地元中町に工房を構えました。平成26年には、紀州街道沿の本町に工房を移し、現在は、弟子二人とともに、昔ながらの工法と精神で日々彫物と向き合っております。 地車彫刻の場面は、神話物から合戦物、花鳥風月まで様々で、その場面はゆうに百は越えます。同じ場面であっても彫刻師ごとに味わいが異なってまいります。 私が入門した木下彫刻工芸、淡路島の彫刻文化の系譜にあります。木下彫刻工芸の初代、木下舜次郎をはじめ、岸和田で鑿を振るった多くの彫師は、淡路出身であったり、淡路の彫師の影響を受けたりしているのです。その中でも、淡路の彫刻を「淡路彫」と言わせしめるまでにその名を轟かせたのが開正藤、生珉、父子です。 ダンジリと言えば、岸和田では地車を指しますが、淡路の太鼓台も、岸和田と同じくダンジリと呼ばれます。 開父子は、その淡路のダンジリ(太鼓台)の部材の寸法や形状を活かした、彫刻の構図を確立しました。 そして、岸和田には、地車がありました。ここに、太鼓台で培われた淡路彫の技術が注ぎ込まれると、太鼓台とは部材の大きさや比率の異なる部材の中で、さらに生き生きと彫刻が踊り、岸和田の地車独自の味わいを醸し出していくことになるのです。 思い返すと、亡き父親がいつも口癖のように「彫刻は淡路や」と言っていた意味が、今になってようやく実感できました。 岸和田の地車彫刻は、このような淡路と岸和田という二つの土地を舞台に育まれてきたのです。木下彫刻工芸での修行時代に培った技術や精神は、単なる思い付きや奇抜な工夫ではなく、下絵の描き方、その構図の取り方、鑿の入れ方、など、一つ一つに意味があり、それは、何世代にもわたって淡路と岸和田で培われてきた、決して一代限りの彫師の努力では辿り着けない匠の境地です。 図らずも、その技術を、受け継ぐことができたことに感謝するとともに、それを、次の世代にも受け継いでいかねばならない責任も感じている次第です。 企画の趣旨 このような、淡路彫、淡路系の岸和田彫とでも言いましょうか、その彫刻の魅力を伝えること。そして、「だんじり彫刻の美を再考」すること。この二点が、今回の企画の大きな目的です。今日、インターネット、SNSが発達し、一昔前では考えられない程、様々種類の、多くの木彫を目にする機会が増えて参りました。もちろん私も、その恩恵を受けている一人ではあります。 彫刻作品は、もちろん、一旦、世に出た限りは、その評価は見る側に預けられる訳ではありますが、「この部分の工夫を見て欲しい」といった彫師としての気持ちがないと言えば嘘になりますし、もしかすると、彫師側の想いというものをお伝えした方が、彫刻の魅力をより伝えることができるのではないか、という気持ちが何年か前から芽生えて参りました。 先ほど述べさせていただいたように、お伝えしたいのは、私個人の技量というよりも、淡路と岸和田で培われた「彫物の定理」です。これは、やはり、それを知る側の彫師が、案内役を務めた方が良いだろうと考えるに至り、今回は、私の彫師人生で初めて、彫物について、自らの想いを口に出して説明したいと思っております。 私の目指す彫物は「古くて新しい彫物」「100年前でも100年後でも通じる時代を選ばない作風」です。 それが、どんなものであるのか、まだまだ答えは出ておりませんが、少なくとも、過去を振り返って、先人の遺業に学ぶ姿勢は必須であると考えております。 芸術作品への挑戦 今回は、自分自身が、これまで述べたような淡路系岸和田彫の彫師の一人であることを確認した上で、地車という枠組みを越えて、初めて自分の意思で自由に作品を彫って披露いたします。いわゆる芸術彫刻というものになりますでしょうか。芸術と申しましても、やはり今まで私の人生を捧げてきた地車彫刻の技術や発想が基本になります。そこに自分の感性を惜しみなく注ぐことができるのかどうか、今回はその挑戦でもあります。 私の尊敬する彫師は親方の木下賢治、その父である舜次郎、そして淡路の開正藤・生珉父子です。その目指すところは、岸和田と淡路の和合から生まれる新たな境地。淡路と岸和田、その深淵な彫刻文化にどこまで私の感性を挟む余地があるのか未知数ですが、今回は自分の力試しのつもりで、迷いを振り切って作品の完成に向かって突き進んでおります。 題材は国生み。岸和田彫刻の源流である淡路はイザナギ・イザナミの国生みで生まれた初めの島とされています。そして、新しい改元の年に相応しい題材であることも、国生みを選んだ理由です。 今回は淡路から開正藤、生珉、父子の作品が沢山参ります。淡路彫に囲まれても違和感のない、その系譜に連なる彫刻を仕上げることができるかどうか、六月一日の「ひねもす博覧会」当日まで、欅の塊と一心に対話して参りたいと存じます。 最後になりましたが関係者の皆さまにお礼を申し上げます。 彫師として人生を歩むことができたのは、木下賢治親方、兄弟子の木下健司氏のお陰です、この場を借りて深く感謝を申し上げます。 また、淡路から多くの彫刻作品の手配いただきました写真家の平田雅路氏、そして、淡路の太鼓台と岸和田の地車を学術的な背景から結び付けていただきました篠笛奏者の森田玲氏にも厚く御礼を申し上げます。 そして、お一人お一人お名前をあげることは叶いませんが、公私ともに支えて下さっている多くの皆さまに感謝を申し上げます。 今回の企画が、岸和田の彫刻と淡路の彫刻の歴史文化を見直すきかっけとなり、ひいては、ささやかでも、日本の木彫文化の継承発展に寄与することができましたら幸いです。 賢申堂 河合申仁
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