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フォーラム記事

森田玲
2019年3月06日
In コラム③ ダンジリのルーツと語源を訪ねて
太鼓は音を伝えるための祭具です。カミに対しては、その降神を乞い、ヒトに対しては祭の始まり、あるいはカミの到来を告げます。 太鼓台のルーツは神輿の到来を告げる触太鼓。太鼓台と呼べる初期の形態は鋲打太鼓を木枠に吊しただけの単純な枠式太鼓台でした。 これらが各地に伝播すると、一見しただけでは同じ出自の構造物とは判別できないほどに、様々な形態の太鼓台が生み出されました。一番有名なのが、緋色の茵(しとね)のようなものを何枚も重ねた布団太鼓。屋根付太鼓台の典型ですが、この屋根が、鳳輦型神輿の屋根を模したもの、神社の社殿を模したもの、など様々です。 また、同じ形態の太鼓台であっても、「布団太鼓」「御輿太鼓」「布団だんじり」「ちょうさ」「よいまか」、あるいは単に「太鼓」などと呼ばれ、太鼓台をその名称だけで分類することは難しいです。 このように多様な太鼓台ですが、多くの太鼓台に共通する要素があり、そこから、太鼓台の出自は神輿の触太鼓であることがわかります。 (1)乗子(のりこ)の装束と作法に見る太鼓台の神聖性 太鼓を打つ乗子の多くは子供です(あるいはかつては子供だった)。そして「化粧を施し投頭巾をかぶって艶やかな装束をまとう」「地面に足をつけずに大人に肩車されて移動する」といった多くの太鼓台に共通する乗子のあり方は、神賑行事の囃子方というよりも、神事に向かう神役のように感じられます。 乗子は、無邪気な子供でなければなりません。化粧・装束による変身は、カミに仕えるため、あるいは神聖な祭具に触れる資格を得るためと考えられます。 (2)太鼓の奏法 太鼓台の太鼓は、激しく打ち鳴らす地車囃子とは異なって、遠音がさすように一音一音が丁寧に打ち込まれます。江戸時代も同じような打ち方がなされていたのでしょうか。日本での録音の始まりは明治以降ですので、江戸時代の音源はございません。文献から「音」を再現するのは難しいのですが、幸いにも、大田南畝(蜀山人)の日記『芦の若葉』には、享和元年(1801)の天神祭における催太鼓の「音」が記録されています。そこには、現在と同じように「まどをに(間遠に)」、すなわち、一音一音の間隔をあけて打たれていたと記されているのです。 太鼓台の役割は、人々を囃し立てるのではなく、人々にカミの到来を知らせるために音を遠くに伝えることだったのです。太鼓の奏法が神賑化しなかった、すなわち、囃子化しなかったのは、このような太鼓台の役割を、担い手自身が十分に理解していたからに他なりません。 (3)神輿を先導する太鼓台 太鼓台の歴史が古い祭では、太鼓台は今でも神輿の先導役で、その担い手の地位は、概して、他の練物よりも高いとされます。天神祭の催太鼓(もよおしだいこ)、生國魂神社の枕太鼓、杭全(くまた)神社の太鼓台などが代表で、催太鼓の「催」には「お知らせ」の意味があり、生國魂神社の枕太鼓は、かつては「報知太鼓」と呼ばれていました。 以上のような現在の太鼓台の特性や史料から、様々な形態の太鼓台のルーツは一つで、それは神輿の触太鼓であると言えるのです。 太鼓台は本来は氏地に一台が基本でしたが、神輿の先導という役割を離れて、地車のように、氏地に複数台が出る祭も次第に多くなってきました。次回以降、このような「神賑一般の太鼓台」についても触れて参りたいと思います。 図・写真 森田玲『日本の祭と神賑』創元社より
太鼓台のルーツは神輿の触太鼓 content media
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森田玲
2019年2月22日
In コラム③ ダンジリのルーツと語源を訪ねて
このコラムでは「彫物ひねもす博覧会」の主題である「淡路のダンジリ(太鼓台)」と「岸和田のダンジリ(地車)」への理解を深めるために、それぞれのルーツを紹介するとともに、太鼓台と地車という全く異なる形態の練物が、なぜ双方ともダンジリと呼ばれるのか、という謎についても、これまでの研究成果を援用しながら解き明かして参りたいと思います。 太鼓台のルーツの紐解くヒントは、太鼓台の核となる太鼓にあります。 地車のルーツを紐解くヒントは、その彫刻の一部にも刻まれています。 だんじりの語源は、太鼓台に乗り込む子供たち、地車の本来の役割の一つである移動式芸能舞台にありました。 時に寄り道もしながら「ひね博」が100倍楽しめるコラムを目指します。 平田さんと河合さんのコラムと合わせてお楽しみください!
ダンジリとは何か? content media
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森田玲
2019年2月21日
In ひね博 概要(ご挨拶)
ホームページをご覧の皆様。京都と岸和田を拠点に、篠笛の演奏・指導・製作販売・調査研究を行なっている森田玲でございます。篠笛の出自は祭ということもあって、私は、神賑(かみにぎわい)をキーワードに祭の研究も行なっております。 今回の私の役割は「彫物ひねもす博覧会」の主役である太鼓台と地車の両方を少しだけ学術的な立場から繋ぐことです。 切り口は以下の三つです。 (1)太鼓台のルーツは神輿の触れ太鼓。 (2)地車のルーツは江戸時代の豪華絢爛の川御座船(かわござぶね)。 (3)淡路の太鼓台は「だんじり」と呼ばれます。岸和田の地車も「だんじり」。姿も来歴もまったく異なる両者がなぜ同じ「だんじり」と呼ばれるのでしょうか。 (3)の謎を解く鍵は、太鼓台と地車が持っていた、地域によっては今も残っている、共通する役割の中にありました。当日の講演では、先行研究の成果を援用しながら、太鼓台と地車のルーツ、そして、「だんじりの語源」に迫って、より淡路と岸和田との距離を縮めることができればと思っています。 嘉永三年(1850)の『皇都午睡』には、大坂の太鼓台の担ぎ歌として「近江に石山秋の月、月に村雲花に風、風の便りを田舎から、唐をかくせし淡路島・・・」と記されています。 布団太鼓では今でもよく歌われる尻取歌の原曲で、40年ほど前には、岸和田でも夜になるとこの類の歌が聞かれました。 大阪湾岸に住む人々にとって、そして、岸の海(きしのわだうみ)住む岸和田の人々にとって、淡路島は日常の風景でした。その逆もまた然りと言えるでしょう。 現在では、岸和田と淡路を行き来するためには、大阪湾岸をぐるっと回って明石海峡大橋を渡らねばなりませんが、海路の往来が一般であった頃は、岸和田と淡路の距離は今よりももっと近いものであったはずです。 今回の企画を通して、岸和田の彫刻のルーツの一つである淡路彫の魅力がより広く知られることになることを願うとともに、岸和田と淡路との親交が深まれば嬉しく存じます。 思い起こせば、幼少の頃、いつも見ていた彫刻は、土呂幕にド迫力に展開されていた「天岩戸開き」でした。私はその時から40年の彫物ファンです。今回の河合申仁氏の新作は、淡路島、そして、新元号にちなんだ「国生み」とお聞きしております。私の彫刻体験の原点である天岩戸開きの全段にあたる日本神話です。個人的にも完成がとても楽しみです。 また、その国生みを行ったイザナギノミコト・イザナミノミコトが祀られる淡路島の風景、そして、そこで育まれた淡路彫の魅力を平田雅路氏の写真とお話から知ることができることも、もう一つの楽しみです。 彫刻に関する知識に乏しい私ですが、この度は図らずも太鼓台と地車の発達史、だんじりの語源について語ることで、会の末席に加えていただけることが叶いました。 だんじり彫刻の魅力を、少し離れた立場からではありますが、ご来場の皆様にお伝えするお手伝いができれば幸いです。 篠笛奏者 森田玲
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森田玲

その他
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